コロナ禍2年目に思うこと
さいきん、写真にうつった自分の顔を見てガクゼンとする。
もちろん加齢のせいもあろうが、それだけではない。
生気がないというか、目が死んでるのだ。
あれは死んだフナの目🐟
カメラに向かって笑顔を作ってはいるが、まったくもって冴えない。
コロナ禍で、外出や、人と会うのがままならなくなったとはいえ、見るに堪えない。
どうやら化粧品やマッサージなどではとうてい改善できない、根深いトラブルが起きているようだ。
思えばCAという仕事、また外資系企業で働くというのは、ずいぶんと表情筋が鍛えられるものだった。
接客業であることに加えて、ことばが違う人たちと意思疎通をはかるために、顔の筋肉をよく動かした。
ありがとうの顔、すみませんの顔、うれしいの顔、困った顔。
とくに外国の人と話すときには、自然と身振り手振りも大きくなっていた。
それが今では。
ほとんど家にこもっているがゆえに、感情の振れ幅が小さい。
ストレスが減ったという点では楽になったが、同時に人間らしくないとも感じている。
多くを語らずして分かり合える家族とは、最小限のコミュニケーションで済ますことができる。
たまに他人と話す機会があっても、マスクで隠れている部分の筋肉は怠けている。
また、宝塚を観て感動することはあっても、その感情は一方通行である。
母がよく言っていた。
笑って生きるんやと。
辛いときこそ、笑いなさいと。
わたし自身も実際、それをモットーとして生きてきた。
だが「無理して笑う必要があるのか?」と疑問に思うことがなかったわけではない。
作り物の笑顔なんてニセモノだし、だいいち自分が楽しくない。
でも、母が言いたかったのはそういうことじゃない。
「楽しいことを見つけなさい」
時代や環境などといった、与えられるものに委ねるのではなく。
自発的に笑いなさいということ。
どんな境遇にあっても、幸せは転がっている。
それを掴むか掴まないかは、己の心の持ちかたしだい。
ここにきて、やっと母の意図することが分かるようになってきた。
アゲンスト【Against】コロナ
わたしは、ウィズ(With)コロナという言葉が好きではない。
「共存」という意味で使われているのだろうが、共存なんてしたくない。
日本人は、物事に折り合いをつけるのが得意だ。
だがその美点こそが、感情の歪みを生み出しているのも事実だ。
今後は、アゲンスト(Against)コロナ、つまり「コロナに立ち向かう」くらいの気概がないと難しいかもしれない。
折り合ってばかりいると、いつ収束するかわからない。
一人一人が、自分のいる場所で何ができるか。
今まで以上に意識することが必要だと思う。
「ポジティブシンキング」なんていう、きれいめなことばではなく。
「必死こいて」行動するときが来たと思う。
あいにくまだこの状況はつづきそうだが、わたしは、この一年で衰えた表情筋を取り戻す。
笑って過ごすために、笑って過ごせる材料を増やすつもりだ。
待ったり、祈ったりするのも、もちろん大切。
だけどこれからは、能動的に動くことに重点を置いていきたい。
自由に外に出歩くことが許されないから、基本的に家でできることを探す。
ひとりじゃなく、だれかと一緒にできればなお良い。
こんな時代だからこそ拓ける未来もあると、信じて生きていきたい。
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