アメちゃん賛歌
すっちーとアメちゃん
前記事にも登場する、「宙組20周年イベントの陣」を共に戦った、戦友のKちゃん。
彼女は、宝塚歌劇はもとより、吉本新喜劇のコアなファンでもある。
「すっちーのお披露目公演だって、固定電話だけで一列目とれたのに。」 と、今回のチケット争奪戦敗北を口惜しそうに振り返る。
「わあ、すごいやん!」
きっとそれだって、かなり運がよかったのだろう。
「ね、ね、一列目って、どんなかんじやった?」
「すち子、舞台からアメちゃんばらまくんやけど、席が前すぎると頭上を通過するからゲットできないねん。」
吉本新喜劇座長「すち子」こと、すっちー氏。
男性だが、大阪のおばちゃんに扮して漫才をする。
その風貌たるや、いちど見たら忘れることができないほどのインパクトの強さだ。
📕 「すち子になれるマスク」置いてます☟
彼は劇場で、客席にむかって飴をばらまくのがお約束だそうだ。
Kちゃんは、飴をとることができなかったとボヤきながらも、最前列で観劇できたドヤ感にあふれていた。
すっちーは、その名前から、わたしが勝手に親しみを感じている芸人さんだ。
だが、実際のパフォーマンスを見たこともなければ、経歴にも詳しくはなかった。
いい機会なので、YouTubeでネタの勉強をしようとググってみることにした。
そしてWikipediaのプロフィールを見てみたら…驚きの事実が明らかに!
すっちーとしてピン芸人化する前は、「ビッキーズ」というコンビを組んでおり、キャッチフレーズは「ビキビキ・ビッキーズ」だと書いてある。
「ビキ」から「スッチー(スチュワーデスの古語)」へ。
その進化?の過程まで、同じだとは。
わたしのように、彼にも早く東京進出を果たしてほしいものだ←引っ越しただけ
アメちゃんに見る大阪の文化
ところで、巷で言われているように、
大阪のおばちゃんは、本当に飴を持ち歩いているのだろうか?
答えはYESだ。
お母さんのバッグにも。
お母さんの友達のバッグにも。
お母さんの友達の友達のバッグにも。
その友達の…(しつこいっちゅーに笑)
かならず、それは入っていた。
不特定の名詞につけられる敬称
飴に、「ちゃん」いう敬称をつけるのもお決まりである。
大阪では、名詞に不規則的な敬称がつくのが特徴だ。
たとえば、「おあげさん」
おなじ豆製品でも、おとうふさんとか、なっとうさんとか言わないくせに、油揚げだけがリスペクト?される。
犯罪部門では、詐欺さんや恐喝さんはないが「泥棒さん」はあり、
天災部門では、地震さんや台風さんはないが「カミナリさん」はある。
だが「おはようさん」や「ごきげんさん」あたりまでくると、ちょっと説明がつかない。
これらの法則性については、フランス語に男性名詞と女性名詞とが存在するように、覚えるしかないのが現状である。
コミュニケーションとしてのアメ
そして、飴にまつわる極めつきがこの言葉。
(基本的に中年女性の口から発されることが多い)
「あめちゃんあげよか?」
駅で電車を待っているとき。
映画をみるとき。
登山をするとき。
病院や役所で順番待ちをしているとき。
口さみしいとき。
話題につまったとき。
うれしいときも、かなしいときも。
おばちゃんと呼ばれる人たちは、そこかしこで飴を配っていたような気がする。
場を持たせるため、はたまた、人気関係を円滑にするため。
おばちゃんとアメちゃんは、ニコイチでいい仕事をする。
「イヤ!これおいしいわあ。なに味?」
「えーと、なんやったかなあ」(カサカサ←パッケージを見る音)
飴の味や食感について語りあうだけでも、心がほぐれていく経験。
あなたにも、きっとあるはずだ。
小さくても立派なカンバセーションピース、飴。
飴はまた、饒舌多弁な大阪人を黙らせる薬であると同時に、己の内面と対話するためのツールでもある。
飴をなめているあいだだけは、口の動きが制限されるからだ。
年をとり。
自分がおばちゃんと呼ばれる年齢となったいま。
わたしのキャビンバッグには、かならず飴が入っている。
最近では食べないことのほうが多いけれど、お守りがわりに持っている。
これまでに、いろんなおばちゃんから手渡されたアメちゃんの温もりを、ずっと忘れられないから。
こんど、大阪で生まれた女に出会ったら聞いてみてほしい。
「あめちゃん、持ってる?」
って。
きっと、かなりの確率でアメちゃんがもらえるはずだ。
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