みんなちがってみんないい
わたしの黒歴史(…赤歴史?)
鶏口となるも 牛後となるなかれ
という、漢文からきたことわざがある。
ふりかえってみるに、わたしの生きかたは、いつだって後者だった。
わたしが通っていた高校は、地元ではいちばん偏差値の高い学校だった。
無理をしてそこに入ったはいいが、入学後たいへんな思いをすることになる。
1学年500人以上いたその学校で、500番台の席次を取ることを、「底辺を這う」と言っていた。
底辺を這わないよう必死で勉強するのだが、こと苦手科目においては、「そこ」から抜け出すのが非常にむずかしい。
通知表の数学の欄には、いつも黄河ならぬ紅河が流れていた(赤点の連続の意、泣)
ゆく河の水は絶えずして、紅い色から黒い色に転ずることはなかった。
ごくたまに天変地異(⁉︎)が起きて、黒い水を見ることもできたが、油断するとまた、いつもの紅い色に戻ってしまう。
代数幾何と基礎解析とに分かれていたので、さしずめ紅いチグリス・ユーフラテス川といったところか。
さすがに最終学年では、オセロさながら、ぜんぶ真っ黒に変えてやりましたけどね(ドヤッ)
赤点を知らない大人たち
ところで数年前、同窓会で赤点の話になり、衝撃を受けたことがある。
高校時代から成績がよく、現在は某国立大工学部の教授をされているO君が、
「赤点って何?」と言ったのだ。
アカテンッテナニ?
アカテンッテナニ?
ワアアアアアアアー
わたしは、一瞬にしてムンクの叫びと化した。
この世に赤点を知らない人間がいるのかと、心底驚いた。
それは冗談でもなければ、赤点なんて取ったことがないという申告でもなかった。
まあそうよね。
日本を代表する大学の教授が、「チグリス・ユーフラテス川が紅い!」とか言ってたら、この国の未来を疑うよね。
There is no accounting for tastes
話は変わって。
仲良くしていただいている、藤沢にお住まいのご夫婦から、巨大スイカを食べる会に招かれた日のことだ。
おいしいスイカをいただき、お酒も入って楽しく盛り上がるうち、ひょんなことで源氏物語の話になった。
古文が得意だったわたしは、桐壺の冒頭「いづれの御時にか。女御、更衣 あまたさぶらひ給ひけるなかに…」を諳んじてみせた。
皆が感嘆の声をあげるなか、ひとりの男性がこう言った。
「古文って、ぼくにとっては学校で勉強した科目のなかで、もっとも役に立っていないものです。そんなの覚えて、何になります?」
古文大好き芸人?のわたしは、こう反論した。
「古文は、人の心を豊かにします。」
古文に限らず、文学というのは、ときに道しるべとなり、ときにその世界で遊ぶことができる。
そして、こう付け加えた。
「わたしの場合だと数学。たとえば微分積分なんて、なーんの役にも立っていませんけれど。」
すると、驚愕の答えが返ってきた。
「ぼくは、ナム◯という会社でゲームを作っています。微分積分は、ぼくの生活に欠かすことができません。」
わたしは、ここでもムンクと化した…
好き嫌い、得手不得手というのは、三者三様で「いとをかし」である。
それぞれに強みと弱みがあるからこそ、お互いが補いあって世の中がまわっているのだ。
自分ができないことを、自分の代わりにしてくれる他者に対し、感謝の気持ちや尊敬の念を抱きあえば、世界はもっと素敵な場所になるだろう。
📕 続編「みんなちがってみんないいパート2」はこちら。
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