空に憧れて【外資系航空会社就職までの道のり】
バブルの末裔
どこにでもいる大学生だった。
地元ではいちおう「ええとこ行ってはるんやね〜」と言われるレベルの大学に通っていた。
そのため、就職であんなに苦労するなんて思ってもみなかった。
バブル終焉の足音が、ひたひたと近づいているのに気づきもせず。
わたしを含め、人々はキリギリスであることを謳歌していた。
ワンレン・ボディコンは、わたしたちのドレスコード。
腰まである長い髪は、ストレートパーマかソバージュの二択。
前髪はカーラーで巻いて、整髪料「ケープ」でトサカのように立ち上げる。
派手な色のスーツには、かならず肩パッドが入っていた。
わたしのワードローブのなかで、いちばん攻めてたスーツ。
それはドギツイ紫色をしていて、両胸の部分にジャラジャラと金のチェーンがついていた。
お気に入りのハイヒールは玉虫色に光っていたし、いま思うとすごい時代だった。
大学三年生くらいから就職課に出入りし、卒業生の就職先が書かれた冊子をパラパラとめくった。
そこには当たり前のように有名企業の名前が並び、自分もこのうちのどこかに入れるものだと信じて疑わなかった。
年下の彼氏
近隣の大学に付き合っている彼氏がいた。
家も近く同じ塾でバイトをしていたから、毎日のように会っていた。
駅前に停められた、真っ赤なプレリュード。
あの鮮やかな赤い色を、いまでもはっきりと思い出せる。
誕生日には、年の数のバラの花束を、毎年プレゼントしてくれた。
ひとつ年下の、やさしい彼が大好きだった。
ある日、彼がファミレスで皿洗いのバイトをはじめた。
塾講師とちがって、体力勝負の過酷な労働。
わかっていて始めたはずなのに、彼は三日でその仕事をやめた。
「なんでそんなすぐ辞めたん?」
「…しんどかったから」
「どんな仕事でもしんどいねん。そんなんじゃ本当に就職できへんで」
自分だってまだ就職していなかったが、彼の社会に対する甘さに腹が立った。
だからといって、わたしが立派だったかというとぜんぜんだ。
これといった対策もせずに臨んだ就職活動は、バブル崩壊という予期せぬ向かい風の影響を受け、悲惨な結果に終わった。
就職氷河期がスタート
将来に対する明確なビジョンを持てないまま、かろうじて内定をもらったコンピューター会社に就職することになった。
来る日も来る日も、苦手なパソコンに向かう毎日。
それは地獄のような日々だったが、同時に、自分は何が好きで何がしたいのか、浮き彫りになるきっかけとなった。
わたしは、機械ではなく、人間と接したい。
世界中の人たちと、笑顔を交わし合えるような仕事につきたい。
そんな思いがむくむくと大きくなり、わたしはもういちど、自分に賭けてみることにした。
若さゆえの一念発起
せっかくつかんだ正社員の座を捨て、入社一年目にして会社を飛び出した。
なんの後ろ盾もないので、アルバイトをしながらスチュワーデス養成学校に通うことにした。
当時、破竹の勢いで合格者を輩出していた、京都にある名門スクール。
大阪の自宅から片道二時間かかることも、授業料が他校の倍であることも、夢の実現を思うと乗り越えられた。
いま振り返ると、若さというのは本当にすばらしく、そして恐ろしい。
ここに入学するのに、一ミリのためらいもなかった。
CA養成スクールでの日々
すばらしい講師陣による、即戦的な授業内容。
わたしはそこで、さまざまなことを学んだ。
しかし。
クラスでの成績は良いほうなのに、いっこうに受かる気配はない。
名だたる航空会社のロゴが入った、不採用通知が増えるばかり。
いまならメルカリで、航空マニアの方々に売れるかも(売れんか)
恋さえも凍りついて
折しも、半年間イギリスに留学していた彼が帰ってきた。
ストレスで肌はボロボロ、口を開けばネガティヴなことばかり言うわたしに、愛想を尽かしたのだろう。
別れを切り出されたのは、彼が帰国してまだ日も浅いころだった。
さよならを言われたのも、赤いプレリュードの中だった。
そのとき流行っていた、米米CLUBの「浪漫飛行」が、カーラジオから流れていた。
学生時代のほとんどを、いっしょに過ごしてきた彼。
留学して、ひと回り大きくなった彼と、空回りばかりしている無様なわたし。
いつのまにか、ほんとうに遠い場所にいたのだと気づかされた。
わたしはその夜、なにもかもを失った。
生涯働きつづけたい会社との出会い
大学まで出してもらったのに、定職にもつかず約一年と半年が過ぎた。
好き勝手なことをさせてもらっているのに、娘の成功を疑わず、文句のひとつも言わずに応援しつづけてくれた両親。
「いつでも飛び立てるように」と、母はシングルの布団一式を用意してくれていた。
「この布団、使うことあるんかな…」
ぜったいにスチュワーデスになるという固い気持ちと、家族に対する申し訳ない気持ち。
あまりにも報いがないので、後者の気持ちのほうが大きくなってきていた。
こんど落ちたら、いさぎよくあきらめよう。
命がけの採用試験
そんなとき。
めったに募集をかけないヨーロッパ系航空会社が、若干名の人員補充を発表した。
わたしは学院長の推薦をもらい、面接にこぎつけた。
五次試験まであったので、そのつど大阪から東京まで行くのはとてもたいへんだった。
何次面接のときだったか。
あれは、阪神淡路大震災のすぐあと。
余震で新幹線が止まってしまい、心臓もいっしょに止まりそうになったのを覚えている。
携帯もない時代だったので、車内に備え付けの公衆電話から連絡をして、事なきを得た。
最終審査では、「200メートルをノンストップで泳ぐ」という水泳テストが課された。
速さを競うものではなく、体力と精神力をはかるものだ。
とにかく、足をつかずに泳ぎきればいい。
出だしは順調。
これさえ終われば、あとは身体検査を残すのみ。
わたしは意気揚々と、大海の中を進んでいった。
だが「あと一本」というところで、足がつってしまう事態に!
もはやこれまで…と焦ったが、ここで立ってしまっては、いままでの努力がほんとうに「水の泡」(シャレにならん!)
最後の力をふりしぼり、片足で泳ぎきって、プールサイドに手をついた。
そこには、見たことのない青空が広がっていた。
そして現在
母が用意してくれていた布団とともに上京し、東京をベースにヨーロッパへとフライトする人生がはじまった。
かくして、夢の職業につくことができたが、仕事は夢だけではつとまらない。
のろまで要領の悪いわたしは、素質がないと何度落ち込んだことか。
それでも二十年以上つづいているということは、それなりに向いているのかなと最近になって思う。
それぞれの空を
飛行機を見に、よく伊丹まで車を走らせてくれた彼。
同じ空を見上げては、いくつもの夜を語り明かした。
現在彼は、某大手エアラインの機長として活躍されている。
奇しくも同じ業界で働くことになったけれど、その後もふたりの空が交わることはなかった。
思えば、彼との別れも、わたしの転機のひとつだったかもしれない。
空港のロビーで、日本人のパイロットとすれ違うたび、もしかしてと振り返る。
でも、そこに彼の姿はない。
踵を返してゲートへ向かう。
自分自身の空を飛ぶために。
いまのわたしにできるのは、彼の飛ぶ空がいつも視界良好であれと、祈ることだけだ。
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