ミセスCAのオン&オフ日誌

外資系CA /英会話講師 Vikiのブログ

空に憧れて【わたしがキャビンアテンダントになるまで】

 空に憧れて【わたしがキャビンアテンダントになるまで】

 

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バブルの末裔

 

どこにでもいる大学生だった。 

地元・大阪ではいちおう「ええとこ行ってはるんやね〜」と言われるレベルの国公立大学に通っていた。

そのため、就職活動であんなに苦労するなんて思ってもみなかった。

バブル終焉の足音が、ひたひたと近づいているのに気づきもせず。

ディスコにコンパ、ブランドショッピングや海外旅行。

わたしを含め、人々は呑気なキリギリスであることを謳歌していた。  

ワンレン・ボディコン・ハイヒールは、バブル期を生きる女の子のドレスコード。

腰まで伸ばした長い髪は、ストレートパーマかソバージュの二択。

前髪は、大きめのカーラーかコテで、がっつり巻いて。

ハードタイプのヘアスプレー「ケープ」で、鶏のトサカのように立ち上げる。

芸能人でいうと、浅野ゆう子さんや工藤静香さんがお手本だった。

派手な色味のスーツには、かならずゴツい肩パッドが入っていた。 

わたしのワードローブのなかで、いちばん攻めてたスーツ。

それはドギツイ紫色をしていて、両胸の部分にジャラジャラと金のチェーンがついていた。

神戸の高架下で買った大きなリボン付きのパンプスは、玉虫色に光っていたのを覚えている。

ギラついたマルチカラーのそれは、当時の女子大生のバイブル雑誌・JJやCanCam、Viviなどに頻出したアイテムだ。

いま思うと、すごい時代だった…

そんな中。

大学三年生くらいから就職課に出入りし、卒業生の就職先が書かれた冊子をパラパラとめくった。

そこには当たり前のように有名企業の名前が並び、自分もこのうちのどこかに入れるものだと信じて疑わなかった。

 

年下の彼氏

 

近隣の大学に、付き合っている彼氏がいた。

家も近く、同じ塾でバイトをしていたから、毎日のように会っていた。

駅前に停められた、真っ赤なホンダのプレリュード。

あの鮮やかな赤い色を、いまでもはっきりと思い出すことができる。

誕生日には、年の数のバラの花束を、毎年プレゼントしてくれた。

ひとつ年下の、やさしい彼が大好きだった。

ある日、彼がファミレスで皿洗いのアルバイトをはじめた。

塾講師とちがって、体力勝負の過酷な労働。

わかっていて始めたはずなのに、彼は三日でその仕事をやめた。

「なんでそんなすぐ辞めたん?」

「…しんどかったから」

「どんな仕事でもしんどいって。そんなんじゃ就職できへんで」

自分だってまだ就職していなかったが、社会に対する彼の甘さに腹が立った。

だからといって、わたしが立派だったかというとぜんぜんだ。 

これといった対策もせず臨んだ就活は、バブル崩壊という予期せぬ向かい風の影響を受け、悲惨な結果に終わった。

 

バブルがはじけ、就職氷河期がスタート

 

将来に対する明確なビジョンを持てないまま。

かろうじて内定をもらった大手コンピューター会社に、プログラマーとして就職することになった。

来る日も来る日も、苦手なパソコンに向かう毎日。 

仕事の出来が悪いために、終バスで帰宅がお決まり。

本当にセンスがないと分かった。

控えめにいって、地獄のような日々だった。

 

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だが同時に、自分は何が好きで何がしたいのかを明確にするきっかけとなった。

わたしは、機械ではなく人間と接したい。

英語を使って、世界中の人たちと笑顔を交わし合えるような仕事につきたい。

『やっぱり、スチュワーデスになりたい』

そんな思いがむくむくと大きくなり。

就職してから本当にやりたいことに気づくなんて、遅すぎかもしれないけど。

わたしはもういちど、自分に賭けてみることにした。

 

若さゆえの無謀な一念発起

 

せっかくつかんだ正社員の座を捨てて。

入社一年目にして、会社を飛び出したわたし。

なんのコネも後ろ盾もない。

一から自分でやるしかない。

まずは受験のノウハウを教えてくれる、スチュワーデス専門学校に通おう。

当時、破竹の勢いで合格者を輩出していた京都の名門CA養成スクール。

『そうだ、京都、行こう』

大阪の自宅から片道二時間かかることも、学費が他校の倍であることも。

夢の実現を思うと乗り越えられた。

いま振り返ると、若さというのは本当にすばらしく、そして恐ろしい。

ここに入学するのに、一ミリのためらいもなかった。

客室乗務員の既卒採用試験。

新卒のときよりも、さらに狭くけわしい道を、わたしは歩みはじめた。

 

エアラインスクールでの勉強の日々

 

口コミの評判どおり、プロフェッショナルな講師陣による、即戦的な授業内容。

自己PRや志望動機を、英語と日本語の両方で淀みなく言えるようにするほか。

サービスマインド、好ましいヘアスタイルやメイク、立ち居振る舞いなどの指導。

キャビンアテンダントになるには、どうすればいいか。

わたしはそこで、客室乗務員になる全ての術を学んだ。 

 

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しかし…。

クラスでの成績は比較的良いほうなのに、いっこうに受かる気配はない。

一次審査の書類選考ですら、パスするのは難しい。

名だたる航空会社のロゴが入った不採用通知が増えるばかり。

いまならメルカリで、航空マニアの方々に売れるかも(売れんか)

 

恋さえも凍りついて

 

おりしも、半年間イギリスに留学していた年下の彼が帰ってきた。 

ストレスで肌はボロボロ、口を開けばネガティヴなことばかり言うわたしに、愛想を尽かしたのだろう。

別れを切り出されたのは、彼が帰国してまだ日も浅いころだった。

さよならを言われたのも、あの赤いプレリュードの車内だった。

そのとき流行っていた、米米CLUBの「浪漫飛行」が、カーラジオから流れていた。

 

時が流れて〜だれもが行き過ぎても〜You're just a friend

 

意図してなのか、それともただの偶然か。

いずれにせよ「友達に戻ろう」と、遠回しに宣告されてしまった。

学生時代のほとんどを、いっしょに過ごしてきた彼。

留学してひと回り大きくなった彼と、空回りばかりしている無様なわたし。

いつのまにか、ほんとうに遠い場所にいたのだと気づかされた。 

わたしはその夜、なにもかもを失った。

 

生涯働きつづけたい会社との出会い

 

大学まで出してもらったのに、定職にもつかず約一年と半年が過ぎた。

好き勝手なことをさせてもらっているのに。

娘の成功を疑わず、文句のひとつも言わずに応援しつづけてくれた両親。

「あんたがいつでも飛び立てるように」

と、母はシングルの布団一式を用意してくれていた。

『この布団、使うことあるんかな…』

ぜったいにスチュワーデスになるという固い気持ちと、家族に対する申し訳ない気持ち。

あまりにも報いがないので、後者の気持ちのほうが正直大きくなってきていた。 

ーこんど落ちたら、いさぎよくあきらめよう。

 

命がけのCA採用試験

 

そんなとき。

めったに募集をかけない人気ヨーロッパ系航空会社が、若干名の人員補充を発表した。 

わたしは専門学校の学院長の推薦をもらい、面接にこぎつけた。

五次試験まであったので、そのつど大阪から東京まで出ていくのはたいへんだった。 

何次面接のときだったか。

あれは1995年、阪神淡路大震災のすぐあとのこと。

余震で新幹線が止まってしまい、心臓もいっしょに止まりそうになったのを覚えている。 

携帯もない時代だったので、車内に備え付けの公衆電話から連絡をして、ことなきを得た。 

最終審査の内容は、「200メートルをノンストップで泳ぐ」という水泳テストだった。

速さを競うものではなく、体力と精神力をはかるものだ。

とにかく最後まで、足をつかずに泳ぎきればいい。

出だしは順調。

これさえ終われば、あとは身体検査をクリアするだけ。

わたしは意気揚々と、大海(プール)の中を進んでいった。

だが残すところ「あと一本」というところで、足がつってしまう事態に!

もはやこれまで…。

と焦ったが、ここで立ったら今までの努力がほんとうに「水の泡」(シャレにならん!)

渾身の力をふりしぼり、片足で泳ぎきって、プールサイドに手をついた。

そこには、見たことのない青空が広がっていた。

 

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夢は叶う

 

無事に合格通知を受け取り。

母が用意してくれていた、例のお布団とともに上京した。

約一ヶ月間の新人訓練ののち。

東京をベースに、ヨーロッパへフライトする人生がはじまった。 

かくして、夢の職業につくことができたが、仕事は夢だけではつとまらない。

のろまで要領の悪いわたしは、素質がないと何度落ち込んだことか。

それでも二十年以上つづいているということは、それなりに向いているのかなと、最近になって思う。

 

それぞれの空(人生)を飛ぶ

 

大好きな飛行機を見に、よく伊丹まで車を走らせてくれた元彼。

同じ空を見上げては、いくつもの夜を語り明かした。

彼は現在、某大手エアラインの機長として活躍されている。

奇しくも同じ業界で働くことになったけれど。

その後も、二人の空が交わることはなかった。 

思えば、彼との別れも、わたしの転機のひとつだったかもしれない。

空港ロビーで日本人パイロットとすれ違うたび「もしかして?」と振り返る。

でも、そこに彼の姿はない。

踵を返して、自社便のゲートに向かって歩き出す。

自分自身の空を飛ぶために。

いまのわたしにできるのは。

彼の飛ぶ空がいつも視界良好であれと、遠くから祈ることだけだ。

 

 

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