ミセスCAのオン&オフ日誌

現役主婦CAが、人生という旅の中で感じた諸々を綴ります。 愛する故郷大阪と、東京そして世界を繋ぐ架け橋となるのが夢。

空に憧れて

f:id:ciel114:20180505175609j:plain

どこにでもいる大学生だった。

 

地元では一応、「ええとこ行ってはるんやね」と言われるレベルの大学だったから、就職であんなに苦労するとは思ってもみなかった。

バブル終焉の足音が、ひたひたと近づいているのに気づきもせず、わたしを含め人々はキリギリスであることを謳歌していた。

 

ワンレン、ボディコンは、わたしたちのドレスコード。

腰まである長い髪は、ストレートパーマかソバージュの二択。

前髪はカーラーで巻いて、「ケープ」でトサカのように立ち上げる。

派手な色のスーツには、かならず肩パットが入っていた。

わたしのワードローブの中でいちばん攻めてたスーツは、どぎつい紫色をしていて、両胸のところに金のチェーンが付いていた。

ハイヒールは玉虫の色をしていたし、いま思うとすごい時代だった。

 

大学三年生くらいから就職課に出入りし、卒業生の就職先が書かれた冊子をパラパラとめくった。

そこには当たり前のように有名企業の名前が並び、自分もこの中のどこかに入れるんだと信じて疑わなかった。

 

近隣の大学に彼氏がいた。

家も近く、同じ塾でバイトをしていたから、毎日のように会っていた。

駅前に停められた、真っ赤なプレリュード。

あの鮮やかな赤い色を、いまでもはっきりと想い出せる。

誕生日には年の数のバラの花束を、毎年プレゼントしてくれた。

ひとつ年下の、やさしい彼が大好きだった。

 

ある日、彼がファミレスで皿洗いのバイトを始めた。

塾講師とちがって、体力勝負の過酷な労働。

わかっていて始めたはずなのに、彼は三日でその仕事を辞めた。

「なんでそんなすぐ辞めたん!」

「しんどかったから」

「なんの仕事でもしんどいねん。そんなんじゃ、ほんまに就職できへんで」

  自分だってまだ就職していなかったが、彼の社会に対する甘さに腹が立った。

 

だからといって、わたしが立派だったかというとぜんぜんだ。

これといった対策もせず臨んだ就職活動は、氷河期元年と呼ばれる予期せぬ向かい風の影響をもろに受け、悲惨な結果に終わった。

 

将来に対する明確なビジョンを持てないまま、かろうじて内定をもらったコンピューター会社に就職することになった。

来る日も来る日も、苦手なパソコンに向かう日々。

それは地獄のような毎日だったが、同時に、自分は何が好きで何がしたいのかが浮き彫りになるきっかけとなった。

 

わたしは機械ではなく、人間と接したい。

世界中の人たちと、笑顔を交わし合うような仕事に就きたい。

そんな思いがむくむくと大きくなり、わたしはもういちど自分に賭けてみることにした。

 

せっかくつかんだ正社員の座を捨て、入社一年目にしてなんの後ろ盾もないまま会社を飛び出したわたしは、当時破竹の勢いでスチュワーデス合格者を輩出していた京都にある名門スクールの扉を叩いた。

 

すばらしい講師陣、即戦的な授業内容。

わたしはそこでさまざまなことを学んだ。

 

クラスでの成績は良い方なのに、いっこうに受かる気配はない。

名だたる航空会社のロゴが入った不採用通知が増えるばかり。

いまならメルカリで航空マニアの方々に売れるかも(売れんか)

 

折しも、半年間イギリスに留学していた彼が日本に帰ってきた。

ストレスで肌はボロボロ、口を開けばネガティヴなことばかり言うわたしに愛想を尽かしたのだろう。

別れを切り出されたのは、彼が帰国してまだ日も浅いころだった。

さよならを言われたのも、赤いプレリュードの中だった。

そのとき流行っていた、米米CLUBの「浪漫飛行」がラジオから流れていた。

学生時代のほとんどを、一緒に過ごしてきた彼。

留学して一回り大きくなった彼と、空回りばかりしている無様なわたし。

いつのまにか、ほんとうに遠い場所にいたのだと気づかされた。

わたしはその夜、なにもかもを失った。

 

大学まで出してもらったのに、定職にもつかず約一年半が過ぎた。

好き勝手なことをさせてもらっているのに、娘の成功を疑わず、文句ひとつ言わず応援し続けてくれた両親。

いつでも飛び立てるようにと、母はシングルの布団一式を用意してくれていた。

「この布団、使うことあるんかな…」

ぜったいにスチュワーデスになるという固い気持ちと、家族に対する申し訳ない気持ち。

あまりにも報いがないので、後者の気持ちの方が大きくなってきていた。

つぎ落ちたら、いさぎよく諦めよう。

 

そんなとき、めったに募集をかけないヨーロッパ系航空会社が若干名の人員補充を発表した。

わたしは学院長の推薦をもらい、面接にこぎつけた。

五次試験まであったので、そのつど大阪から東京に通うのはとてもきつかった。

何次面接のときか忘れたが、阪神淡路大震災のすぐ後だったので、余震で新幹線が止まってしまい、心臓も一緒に止まりそうになったのを覚えている。

携帯もない時代だったので、車内に備え付けてあった公衆電話から電話をかけて事なきを得た。

最終試験では、二百メートルをノンストップで泳ぐという水泳テストが課された。

あと一本というところで足がつり、もはやこれまでかと思ったが、ここで立ってしまっては今までの努力がほんとうに「水の泡」(シャレにならん!)

最後の力を振りしぼり、片足で泳ぎきってプールサイドに手をついたとき、そこには見たことのない青空が広がっていた。

 

母が用意してくれていた例の布団とともに上京し、東京をベースにヨーロッパへフライトする人生がはじまった。

かくして夢の職業に就くことができたが、仕事は夢だけではつとまらない。

のろまで要領の悪いわたしは、素質がないと何度落ち込んだことか。

それでも二十年以上続けられているということは、それなりに向いているのかなと最近になって思う。

 

飛行機を見に、よく伊丹まで車を走らせてくれた彼は、現在、某エアラインの機長になっている。

奇しくも同じ業界で働くことになったけれど、その後もふたりの空が交わることはなかった。

思えば彼との別れも、わたしの転機のひとつだったかもしれない。

 

空港で、日本人のパイロットとすれ違うたび、もしかしてと振り返る。

でも、そこに彼の姿はない。

 

踵を返してゲートへ向かう。

自分自身の空を飛ぶために。

 

いまのわたしにできるのは、彼が飛ぶ空がいつも視界良好であれと祈ることだけだ。

 

 

人気ブログランキングに参加しています。

ポチッと一票いただけると嬉しいです。

 


客室乗務員ランキング